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手作り研究会
奥様重役卒業生(=ファミリー会)により、「手作り研究会」という同好会を結成しました。
そもそも「手づくりの良さ」とはいったい何なのでしょうか?
素朴、温かさ、本物志向、こだわり、安心…、思いつく言葉はいくつも出てきます。 例えば、売場で「手づくり…」とついた商品を見ると、何となく良いように思ってしまいませんか?
どうやら私たちは無意識に「手づくり=良い」と捉えているようです。
今の時代、支払いさえすれば手に入らないモノはないともいえるでしょう。そんな生活の中で「手づくり」の響きは人のぬくもりを感じるものの代名詞になっているのかもしれません。
研究会は「手づくり」を実際に体験することで、その良さは何なのかを体感することにしました。そして「手作り」と「市販品」、それぞれの理解を深めていきたいと考えています。
奥様重役卒業生とは?
vol.5 パン工場を訪ねて

今回のテーマ
製パンメーカーの老舗である木村屋總本店にご協力いただき、芳しいパンの香りがほんのり漂う東京工場の会議室で、同執行役員開発部長の西尾憲三さんに、日本のパンの歴史についてお話をうかがいました。

日本におけるパンの発展
米食国である日本のパンの歴史の第1ページは、ポルトガル人が天文12年(1534年)8月に大隈国種子島に漂着した1隻のポルトガル船から始まりました。その6年後に宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、西欧文明の紹介に貢献。徳川幕府が鎖国令を敷いた後も長崎だけはオランダの商館と施設を置くことが許されていた為、この頃になるとかなり多くの人が異国の主食パンを知っていたと考えられます。

パンが産業的見地から民間に広まって作られ始めたのは天保年間に入ってからのことです。天保13年(1842年)に兵糧としてパンの価値に注目した江川太郎左衛門が伊豆韮山の反射炉でパンを焼きましたが、民間ではなかなか広まりませんでした。

パンが大衆のものとなるきっかけとなったのは、明治2年、芝の日陰町にあったパン店「文英堂」(後に屋号を「木村屋」に変更)の創業でした。木村安兵衛によって創業された「文英堂」は、パンの普及に困難辛苦を重ねた後銀座に進出し、明治7年“あんぱん”を販売し、大変な人気を得ました。

明治初期の工場内が描かれたイラスト。

あんぱんを開発するまで
明治5年(1872年)9月、横浜⇔新橋間に日本初の鉄道が開通したころ、東京や大阪で牛鍋が大流行しました。木村屋の初代は、それまでほとんど牛肉を食べる習慣がなかった日本人が牛鍋を好んで食べるようになったのは、日本の調味料で味付けしているからだと考えました。

そこで、饅頭のようにパンであんを包むことを思いつき、試作を繰り返しましたが、饅頭のように生地に砂糖を入れるとビール酵母の働きが弱くなり、焼き上げるときに生地が割れてしまいます。そこで、ビール酵母の変わりに日本酒の酵母を使用し、明治7年に“あんぱん”づくりに成功しました。


明治天皇にあんぱんを献上

明治8年(1875年)4月4日は木村屋にとって画期的な1日です。この日、東京向島の水戸藩下屋敷を訪問される明治天皇に初めてあんぱんを献上しました。木村屋初代・安兵衛、二代目・英三郎(安兵衛の息子)、後に三代目となる儀四郎(英三郎の弟)たちは、献上の2週間前から酒種の仕込みを始めました。そして、あんぱんの中央には奈良の吉野山から取り寄せた八重桜の花びらの塩漬けを埋め込みました。あんぱんは明治天皇のお気に召し、皇后陛下(昭憲皇太后)のお口にも合ったようで、お相伴に預かった女官たちも大喜びだったと言われます。
そして、「引き続き収めるように」との両陛下のお言葉がありました。

明治天皇に献上した際と同じ姿で、現在も発売されている木村屋總本店のあんぱん。
(写真手前「酒種 桜」、写真奥「酒種 小倉」

洋風菓子パンの発展
明治天皇へ献上する際、あんぱんの中央に日本の国花である桜の花の塩漬けを乗せたために“へそぱん”としてあんぱんのスタイルを確立させました。その後木村屋は、あんの代わりにジャムを入れたジャムパンを明治33年に販売を開始。明治37年には中村屋よりクリームパンが売り出されるなど、現在もなお残っている日本独自の洋風菓子パンが続々と生みだされていきました。
日本のパンの歴史(明治以降〜現在)
明治2年
(1869年)
木村屋總本店誕生(当時の屋号は文英堂)
明治7年
(1874年)
あんぱん登場(木村屋總本店)
明治23年
(1890年)
経済恐慌のあおりを受け米騒動勃発。これをきっかけにパン食に注目集まる。食パンの味噌、醤油の漬け焼き(一切れ5厘)が大流行。
明治28年
(1895年)
甘食登場(東京 芝田村町・清新堂)
明治33年
(1899年)
ジャムパン登場(木村屋總本店)
明治37年
(1904年)
クリームパン登場(新宿中村屋)
明治38年
(1905年)
日露戦争の影響でロシアパンに注目が集まる。砂糖をかけたパンも人気。
大正7年
(1918年)
再び全国規模で米騒動。玄米パン登場(田辺玄平氏製造)
大正8年
(1919年)
第一次大戦が終結し、パンが大流行。
大正12年
(1923年)
関東大震災後、簡便食としてパンが重宝される。
大正15年
(1926年)
ドイツのウェルナー社よりミキサー輸入(木村屋總本店)
昭和16年
(1941年)
戦争激化のため、パンの種類は食パンとコッペパンだけとなり、あんぱんなどは製造中止となる。
昭和21年
(1946年)
木の箱の内側に鉄板を敷き詰め、電極をつないだパン焼き器が登場。
昭和26年
(1951年)
小豆の統制解除。木村屋總本店であんぱんとジャムパンが復活。
昭和30年
(1955年)
パン消費量が飛躍的に伸びる。
昭和31年
(1956年)
両面を一度に焼けるホップアップ式トースター登場(東芝)
昭和40年
(1965年)
来店客に見える場所でパンを焼いて、焼き立てを売るスタイルの店舗が登場。
昭和45年
(1970年)
店に並んだパンを自分で取ってレジに並ぶスタイルの店舗が登場。
昭和56年
(1981年)
むしケーキ発売(木村屋總本店)
昭和62年
(1987年)
ホームベーカリー登場(松下電器)。パン食が完全に家庭に定着した。
平成5年
(1993年)
無添加、無漂白、天然酵母のしっかりしたパンを志向する店舗が登場。
あんぱん価格の変遷(1個当たり)
明治7年・・・5厘 明治15年・・・1銭
大正3年・・・2銭 大正12年・・・2銭5厘
昭和13年・・・5銭 昭和24年・・・10円
昭和31年・・・12円 昭和42年・・・15円
昭和43年・・・20円 昭和45年・・・25円
昭和46年・・・30円 昭和47年・・・40円
昭和49年5月・・・50円 昭和49年10月・・・60円
昭和51年・・・70円 昭和54年・・・80円
昭和62年・・・90円 昭和63年・・・100円
平成8年3月・・・120円 平成19年12月・・・130円
平成20年10月・・・140円 〜現在に至る

機械製造と手捏ねの違い
機械製造と手捏ねの大きな違いは、生地をつくる(捏ね上げる)段階で、他の発酵及び分割、整形、焼成については変わりません。機械での捏ね上げは、ミキサーで“叩いて伸ばし、折り畳んで叩いて伸ばす”動作を行っています。手捏ねでも同じように生地がまとまったら場板(整形台)に生地の端を持って“叩いて伸ばし”を繰り返し300回以上行います。
生地を伸ばして風船ガムを膨らました時のように膜が薄くなれば機械と同じパンができると思われます。捏ね上げる工程が十分でない場合、発酵臭が出てしまいます。ご家庭では、餅つき機で生地をつくるのも便利です。

木村屋總本店のこだわり

現在、木村屋總本店が使用している酵母菌は、昭和40年ぐらいに筑波山にて採取した酵母です。また、明治7年から発売している酒種あんぱんは、「あん」にもこだわりがあり、北海道小豆を使用し、明治30年から続いている製法で現在もつくられています。

木村屋總本店ホームページ http://www.kimuraya-sohonten.co.jp/

木村屋總本店で長く愛されている酒種あんぱん。
写真手前から、「酒種 白」、「酒種 小倉」、「酒種 けし」、「酒種 うぐいす」、上段は「酒種 桜」。
昭和40年ごろ、筑波山から採取した酵母を入れていた壺。東京工場で大事に保存されています。 木村屋聡本店の東京工場にて記念撮影。興味深く楽しいお話をありがとうございました。